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父の一周忌。サトーカメラと私に大きな変化があった話

「誰かに必要とされること」を求めていた

今月5日の土曜日。昨年亡くなった父・勝男の一周忌の法要があった。命日である10月7日は、不思議なもので、42年前、父がやっていた家業のサトーカメラに私が入社した日でもある。そして10月10日は創業日でもあるから、10月初旬はいろんな意味で私にとって濃い時期だった。
 
父のことは当然思い出した。もとは裕福な家の末っ子長男に生まれ、でも、中学で父親を亡くし、19歳のときには母親も亡くしたこと。東京で大学生をしていたが、それを機に宇都宮に戻ると、こっちがまだ子どもで何もわからないのをいいことに、会ったこともないような親族の誰彼が現れて遺産相続で相当大変だったらしいこと。マツダに就職して勤めた後は、わずかに残っていた資産を元手にサトーカメラを開業し、母と二人で頑張ったこと。私が高校を卒業するとき、やりたいことが見つからない私に写真学科のある大学に行くよう勧めてくれて、でも高校の推薦が取れず、父が書いた推薦状で私は東京の写真専門学校に行けたこと・・・。
 
そしてやっぱり、あのハガキを思い出した。東京に出て数ヶ月経ち、私の19歳の誕生日が近づく頃に父から届いた、「助けてくれ。店を手伝ってほしい」という一枚のハガキだ。
 
私は4人兄弟妹の次男坊。「俺より兄ちゃんのほうが出来がいいのに、なんで?」と思った。けど、「初めて親父から頼られた」という嬉しさもあった。そのときにはすでにやりたいことが見つかっていて、アパレル関係の仕事をするのが初めて自分の意志で決めた夢だったが、私はそれらすべてを捨てて、宇都宮に戻った。
 
「自分の夢とかやりたいこととかより、誰かに必要とされることのほうが大きい」という、それまで自覚していなかった自分の本性に、私は父のおかげで目覚めさせられたのだ。

家業に入ってからの悶々とした日々
自分を変えさせてくれた恩師

でも、帰ってからは後悔ばかりだった。親父とお袋しかいない職場だもの。客も中年オヤジしか来ない店だもの。どう考えたって二十歳そこそこの若い人が楽しめる環境じゃない。私は毎日、「俺の夢は? 自由と平等と愛とフロンティア精神は? どこ行ったのか?」と悶々とする日々を送っていた・・・。
 
その反動でもないけど、1985年頃通っていたクラブのダンス大会でグランドチャンピオンになっちゃって、大手芸能プロの会長直々にスカウトされちゃって、あわや芸能界入りだったのは嘘みたいなホントの話だ。あのとき、もし電話番号を間違わずに教えてしまっていたら・・・。そう考えると、神様が後ろから止めるとか背中を押すとか、そういうことはあるんだろうなぁと思う。
 
そういう時期だったこともあり、取引先の社長さんに極真空手の先生がいて「君にピッタリの先生がいるから」と少林寺拳法を勧められたのも、今考えると偶然じゃなかった。今度一緒に道場に行こうと誘ってくれて、そこで初めて、「本気で向き合わないと、今この瞬間に集中しないとやられる」という体験をした。そして真剣勝負のおもしろさに没頭していった。
 
同時に、「表ではいいことを言いながら裏では品性を疑うようなことを平気で言う大人」ではない大人、真の意味で尊敬できるカッコいい大人が世の中にいることも――その少林寺拳法の先生のことだ――初めて知った。私は先生に憧れ、「先生みたいな大人になる」と一人で誓いを立てた。
 
そして、「尊敬される大人になりたい」と思ったが、道場でいくら頑張っても外に出たらただの兄ちゃんのままだから情けなかった。私の知らないところで「一番弟子だ」とまで言って私を評価してくれていた先生に対し、申し訳ないと思ったのだ。「あの人立派だね。あの先生の一番弟子だってね」と世間に一目置かせるくらい、社会的にも立派な人間になって、先生の恩に報いたい。そう思ったのだ。

最後発、2万番目からの下剋上
それでも私は父と兄を担ぎ続けた

そこからがむしゃらに頑張った。「大きな会社=いい会社」という程度の考えしかない父の事業観を“地域のため、お客さんのため”という方向に向けさせ、「県内で四番ぐらいがいい」と言う兄に栃木で一番になる覚悟を決めさせた。そして、創業当時は県内に200社くらいカメラ店があったが10年で圧倒的シェアを抑え栃木一番になり、全国では2万番目ぐらいからスタートした栃木の一番店が、業界売り上げ全国ベスト10入りを果たした。
 
ビジネス本も出版した。サトーカメラの圧倒的な県内シェアが話題となり最初に私の本が出たときは、「お前は次男坊でラクでいいなあ。お父さんとお兄さんが優秀だもんなぁ」と今まで言っていた人たちが、「お前がやってたのか! やっぱりそうか! そうだと思ったよ!」と一斉に手のひらを返した。それはもう見事な返しっぷりだった(笑)。
 
でも、それでも私は父を担ぎ、兄を担ぎ、自分はあくまでも№2であるべきだと考えていた。むしろ、自分はいずれ身を退き、二刀流のもう一本である、自らの手で全国を相手に道を切り開き地位を築き上げてきた「商業経営コンサルタント」に集中しようと思っていた。
 
その気持ちは去年父が亡くなったときも同じだった。肺に血が溜まって苦しそうな父が、「いいから寝てろよ」となだめる私を押し返して、「頼むぞ。サトカメを頼むぞ!」と最後まで繰り返していたときも、私は、「大丈夫だよ。ちゃんと兄ちゃんを立ててやっていくから」と答えていた。

一周忌で、重なった二つの言葉
そして「機は熟した」

そして一周忌。親父が死んで1年。法事も終わり一区切りついたとき、ふと、父の最後の言葉――「頼むぞ」――が、私を栃木に呼び戻した言葉、父が初めて私を必要としたときの言葉――「助けてくれ」――に重なった。そして、ごく自然に思った。「俺にやってほしかった、ってことだったのか?」と。
 
そして創業記念日、私は兄に、「俺がやるよ! それが一番いいのかもしれないね!」と初めて遠慮せず言った。我欲のない素直な言葉だった。兄はその言葉を待っていたようにも感じた。心底ホッとした顔で、嬉しそうだったから。
 
私が勝手に役割として「自分は神輿を担ぐ側」と決め込んでいたせいで、かえって迷惑をかけていたのかもしれない。兄にも余計な重荷を負わせていたかもしれない。そう考えたら、なおさら、これからは自分がオーケストラの指揮者のようにチームを奏で、会社を引っ張ろう、と思えてきた。それが一番いい形だったのだと自分でも思うようになった。
 
ただ、自分の変化だけでその心境に行き着いたとは思わない。この1年の間に兄は兄でものすごく大きな経営上の決断をしてくれた。それがあったから、私は本当の意味で兄を認めることができたし、これからは担ぐとか担がれるとかじゃなくコンビで、一緒に社業を続けていけると思った。
 
12月には私も60歳になる。人生のピークと決めている60代の10年がいよいよ始まる。その前にこうやって気持ちを仕切り直す機縁に恵まれて、「不思議なものだなぁ。ありがたいなぁ」と感じています。

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